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2010年9月12日 (日)

大同感

最後の部分の「税金投入」の件はこの人の言ふとおりだ。
社民党は、日本人の税金で政党助成金だの議員の給金だのを貰つてゐるのに、
日本国の国益を損なふ行動・主張をするなら日本国民の税金から活動費や給金を貰ふな。
全額国民へ返済しろ。
【安藤慶太が斬る】狂っている!朝鮮学校への無償化適用反対することは差別ではない (1/5ページ)
2010.9.12 12:00
このニュースのトピックス:学校教育・学力問題
 今、手元に金曜日に発行された10日付の産経新聞がある。そこに社民党の阿部知子衆院議員と、櫻井よしこ氏が高校無償化を朝鮮学校に適用するか否かで、賛否それぞれの立場から論戦している。
 阿部氏は「学ぶ権利を第一に考えよ」。朝鮮学校の問題を考えるさい、大事なのは朝鮮学校の子供たちの利益となるかどうかである、ここを出発点に考えていけば、教育内容に問題はあっても、その問題を子供達に負わせ、排除するのは差別であり、適用すべきだという見解である。
 これに対して櫻井よしこ氏は日本国としての国益とは何かということを総合的に考えつつ判断がなされるべきであり、その意味で朝鮮学校の教育内容には多くの問題点がある、と明確に反対の立場を唱えている。
 私がこの記事を読んで最も印象的だったのは質問者が「差別をすべきではない、学ぶ権利を奪うことになる、と無償化適用に賛成する人もいる」と問い、櫻井氏がこれに「それでは、偏向した教育、ウソを教える教育、生徒のためにもならない教育を税金で手伝うのか?これをやめさせることが、どうして『差別』になるのか、理解できない。“ためにする”議論というほかないだろう」と述べた発言だった。 ← もつともな意見。てか、こんなことを「わざわざ捻じ曲げて 差別 と騒ぐ人種が持ち出すテーマはろくなものがない。
アジェンダという怪物
 高校無償化の議論に限らないが、つくづくアジェンダ設定の大切さということを考えさせられた。
 日本語でアジェンダという言葉は、議題という意味に訳すそうだが、この言葉は、いわゆる学級会で何を話し合うかといった議題という意味ではない。むしろ、情報戦や論戦のさい、論争論戦の流れを決定付ける問題提起という意味で使われるようだ。物事を判断する議論の場では、自らの主張をいかに有利に導くかが大事だから、そのために議論の土俵作り、自分に有利な論点提示が重要で、それに成功すれば論戦を制することができるという意味に理解している。
「度量を示そう」だって
 櫻井氏の発言は、この無償化の議論の土俵自体が不当かつ虚構に満ちていることを告発しているように思えてならなかった。「どうして、朝鮮学校に異を唱えることが差別になるのか。理解できない」。要はこういうことである。私も全く同じことを感じていた。
 断るまでもないが櫻井氏の発言は差別的意図を持ってなされたものでは断じてない。むしろ、わが国の中にある朝鮮学校の民族教育のあり方を真剣に考えたうえでの発言だと私は思っている。
 この適用問題に関して推進の立場に立つとされる某新聞で「日本社会の度量を示そう」という社説が載ったことがあった。私にはこの社説こそ、実は傲慢(ごうまん)で、不真面目で差別的語感すら帯びているのではないかと感じている。朝鮮学校にいろいろ問題はあるかもしれないが「まあいいじゃないか。認めてやれよ」ということがこの社説の言いたいことだろう。「認める」ではなく「認めてやる」。それが度量だといいたいのだろう。それは朝鮮人を真に尊重している態度だとは私には思えないのである。櫻井氏の発言は無償化の適用を当然と考える在日朝鮮人の関係者には厳しく聞こえるかもしれない。朝鮮学校の関係者の利害に反するかもしれない。しかし、彼らに対して社説よりもはるかに真面目で真摯な態度だと思えてならない。
不当な言論空間
 朝鮮学校への無償化適用の議論の土俵というのは、推進の立場に立つ人からの「貴方は差別をしている」とか「度量がない」といった無責任なレッテルが常に用意されている。そういう不当なレッテル張りがなされる土俵での闘いを強いられているのである。物事を矮小(わいしよう)化して「差別か否か」という争点をたてて土俵をつくる。その枠内で無償化の適用問題を論じる。これは言論空間としては、いびつなものである。考えなければならない論点はもっとあるはずだからだ。
 故・山本七平氏の「空気の研究」は戦後の言論空間がいかに進歩的な人々にゆがめられたかを記した好著である。山本氏が指摘したように戦後の言論空間は、進歩的文化人や左翼によるアジェンダ設定の集積であった。差別感情がなくとも「差別者」「差別的な言動だ」と決めつけられ、指弾され、やがて何もいえなくなる。
 「弱者の権利」などもその典型だろう。「核や戦争」「国家」という言葉もそうである。そういう不当な土俵はいたるところで今も残っていて公正な議論の機会を奪っている。江藤淳氏の名著のタイトル「閉ざされた言論空間」は今も現存していてわが国をゆがめる大問題なのである。(中略)
何度でもいう
 もうひとつ。朝鮮学校というのは北朝鮮の教育機関だということを忘れてはならない。日本の教育機関ではないのである。独裁国家である北朝鮮を支える朝鮮総連の幹部を養成したり、総連社会を維持していくための学校である。朝鮮総連がわが国にとっていかに有害無益な組織であるか。過去には数々の破壊活動や工作活動の拠点となり、日本政府はここを監視対象にしている。
 私は朝鮮民族の民族教育そのものを否定しているのではない。しかし、朝鮮労働党朝鮮総連にとって都合のいい教育をしている、今の朝鮮学校の教育は民族教育に値しないと思う。あれは朝鮮労働党教育であって民族教育としては悲劇的な状況だと私は思っている。
 これは毎回指摘していることだが、誇り高い朝鮮民族の民族教育にどうして日本の税金をつぎ込むのだろう。つぎ込む日本側では多くの人がそれが「度量を示すことだ」とか「共生のため」などという。つぎ込まれる側の朝鮮学校関係者も税金投入は権利であり、差別は許されないと当然視している。そうだろうか。日本の税金で賄う朝鮮の民族教育がまともな教育であるはずがないのである。民族教育というならば、民族の矜持と誇りをかけて民族の英知と資金でやるべき問題なのである。
 それでも、日本の税金をつぎ込むという選択をするならば、つぎ込む以上は、わが国の教育法令に従わないといけないことはいうまでもない。ところが、仮に法令違反があった場合でもまともな指導ツールは国にはない。それどころが国ははじめから教育内容を問わないといっているのである。今の状況がいかに狂っているか。狂っていると思っていない人が多い状況がもっと狂っている。そう思うのである。←全くの正論。このとおり。「無償化対象」の議論に行く前の問題。
(安藤慶太・社会部専門職)

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